【安楽死と自殺】人の生死を他人が決めてはいけないと思う【友人の自死】
安楽死の事件がちょっと前に話題になりましたよね。
私は、自分の生死を自分で決める権利はあるべきだと思うので、安楽死は賛成です。
むしろ、法律でそれを制限するようなことはしてはいけないと思っています。
今回は、そう強く感じたきっかけが最近あったので、それを話したいと思います。
注意:この記事はセンシティブな内容を含みます
この記事では『自殺』に対する私の考えが書かれています。
『自殺』というのはとてもセンシティブな内容です。
人によっては不快に思われるかもしれませんので、苦手な方はブラウザバックしてください。
また、自殺の背景は千差万別です。
この記事で話す『自殺』はあくまでも私が直面した『自殺』です。
『自殺』全般に対する考え方ではないことをご理解いただければと思います。
友人の自死
少し前、親しくしていた友人が自ら命を絶ちました。
理由は遺書によると「ずっとずっと頑張ってきたがうまくいかず、これからも幸せになれないと感じたから」だそうです。
1シーズンに1度のペースで会っていた私が推測するに、これは仕事や人間関係がうまく行っていないという理由ではないと思います。
そうではなく、自分が大事にする価値観に従って生きることがずっと出来なかったからだと思っています。
自分の価値観に従って生きることが出来なかった
彼と私で似ている部分がありますが、その一つに「作品のキャラクターに強い憧れを持つこと」というのがあります。
特に、彼はアニメが好きでした。
アニメのキャラは基本的に
- 夢に向かって何があろうと諦めない
- 自分の価値観に忠実に生きている
という特徴があります。
私は小学校低学年の時に、ドラゴンボールの人造人間編でベジータの、
『俺はカカロットと協力するくらいなら死んだほうがマシだ』
というセリフにとても衝撃を覚えました。
死ぬことよりも大事なことがある人がいてもおかしくないんだなと初めて知りました。(結局彼はカカロットと協力しまくりですが笑)
何が言いたいかというと、カッコいい生き方をしてるキャラクターがたくさんいて、彼らの生き方にエネルギーをもらっていたんです。
それは一種の宗教みたいなもので、『彼らのように生きることが出来てこそ人生』と思う部分は少なからずあったと思います。
一方で、自分は生まれてきてからずっと『何事も中途半端で投げ出して芯がなくフラフラしていた』。
そんな自分に愛想が尽きてしまったのではないかと思うんです。
彼はとても真面目で向上心が強くて人間関係は狭く深いタイプの人間です。
そんな彼は、自分の弱点である「中途半端さ」を自分で許せなかったんだと思うんです。
そういえば、夏目漱石の「ぼっちゃん」に登場するKも、自分の価値観にそぐわない生き方をしてしまったために自殺をしていますよね。
私は、Kの死と友人の死は似ていると感じています。
アニメキャラのように強くカッコ良く生きれないこと。
中二病のように聞こえるかもしれませんが、彼にとってはそれは死活問題だったんだと思います。
そう考えると、彼の自殺は自分の価値観に忠実に従った結果ということになります。
自分の生死を自分の価値観に従って決めることができた。
生きたくても生きれない人、安楽死したくても出来ない人がいる世の中です。
彼の選択は、ある意味でとても贅沢で立派な選択だと思います。
こんなことをいろいろと考えた結果、私は彼の選択を尊重したいと思ったし、人の生死を他人が強制するのは良くないと強く思いました。
最後に:なぜ自らの命を絶ってはいけないのか
「自殺なんて絶対にしてはいけない」
こんな風なことを言われてずっと育ってきました。
しかし、なぜ自らの命を絶ってはいけないのでしょうか。
もともと、生きている意味なんて自分で作るものです。
だとすると、死ぬ意味だって自分で決めていいはずです。
「自殺はいけない」という考え方は、旧世代で主流である「会社を辞めてはいけない」という考え方と根本的に似ていると思います。
- 取り返しのつかないことだから
- 続けていればいいことがきっとあるから
- 友人や同僚、あなたを知る人が悲しむし、迷惑だから
こんな当たり前なことやきれいごとで、本人の意思を捻じ曲げようとするのはおかしいと思います。
本人の価値観や意思をまったく尊重しない考え方です。
私は本人の価値観や意思を尊重したいです。
もちろん、親しくしていた友人が亡くなるのはとても悲しいことです。
どれほど悲しいかなんて、ここでは筆舌し難いです。
しかし事実は変わりませんし、本人の本当の真意は定かではありません。
そんな中で友人として私ができることは、彼の選択を尊重すること。
そして、彼のように自分自身の選択も尊重して頑張ることだと強く思いました。
最後までお読みいただきありがとうございました。